梅月堂について
ABOUT
BAIGETSUDO
梅月堂のいつもの。
making
いつもの、
お菓子づくり
手づくりで受け継がれる
梅月堂のお菓子づくり
いつもの、
材料えらび
RECIPE
長崎で育ったから
できるだけ長崎のものを
Hospitality
いつもの、
おもてなし
お菓子の先にあるものを
見つめていたい
いつもの梅月堂が、
できるまで
明治27(1894)年、長崎市大浦町に和菓子司として創業した「梅月堂」。時はめぐりめぐって130年。長い道のりのようですが、日々の、いつものことを積み重ねて、ここまで歩んでまいりました。創業当時から、世の中はずいぶん変わりましたが、いまも変わらずに伝わるお菓子文化。これからも、ここで、いつもの日々を積み重ねて、伝えていきたいと思います。
Episode
SINCE1894-
和菓子匠三人組、
長崎に出る
梅月堂の創業者である本田兼作は、もともと農家の出身。当時、和菓子屋のメッカともいわれた島原から長崎へ、和菓子匠の仲間三人組が店を開きました。それぞれに「松」「竹」「梅」の文字を冠した店名としたと伝わっています。そのなかのひとつが、梅月堂です。創業の地は、長崎市大浦町。それから市内数カ所に店舗を移転し、昭和2(1927)年にいまの浜町に落ち着きます。そう、現在の梅月堂本店です。何度も店を移転したことから、創業からの店の歴史を伝える資料・文献が迷子になって、いま残っていないのがとても残念です。
Episode
SINCE1894-
ドイツ人シェフの、
洋菓子
二代目の藤四郎は好奇心旺盛で、和菓子職人であると同時に、洋菓子にも興味をもって取り入れていたようです。梅月堂が本格的な洋菓子店としてスタートするきっかけともいえそうな、おもしろいエピソードが残っています。時期ははっきりしませんが、長崎に停泊していた船のドイツ人シェフが店の前で酔い潰れていたことがあり、それを店主が介抱したことがありました。そのお礼として、ドイツ人シェフが店にある材料をつかって焼菓子を教えてくれたそうです。それがよほどおいしかったのか、その後外国人と会うたびにお菓子のことを教えてもらっていたようです。材料が手に入れやすくなった昭和30年ごろには、本格的に洋菓子店としてスタートしました。
Episode
SINCE1894-
戦後からの、
営業再開
梅月堂の長い歴史のなかで、やむなく営業を中断したことが二度あります。一度目は太平洋戦争の一時期と、二度目は昭和57(1982)年の長崎大水害で被害を受けたときでした。戦後の営業再開は、昭和21(1946)年に二代目藤四郎、三代目久喜で、かろうじて残っていた店の前でぜんざいをつくることからはじめました。その当時、ぜんざいは飛ぶように売れたそうです。それから3年後には店を再開することができ、昭和30(1955)年ごろには、人混みで歩けないくらい浜町の店の前は賑わっていました。
Episode
SINCE1894-
長崎の文化人と、
お菓子
昭和30年ごろの梅月堂の喫茶室は、画家や文化人が集い、コーヒーとお菓子、おしゃべりを楽しむサロンのような場でもありました。南蛮おるごおるのパッケージでおなじみの版画家の田川憲さんも梅月堂に通っていた長崎の文化人のひとりでした。当時の梅月堂は、長崎県の民芸協会の事務局をやっていたこともあり、文化人とのつながりも深かったのでしょう。そのご縁から田川さんと懇意となり、いまでも愛され続けている南蛮おるごおるのパッケージにつながっているのです。
- 会社名
- 株式会社 梅月堂
- 代表者名
- 代表取締役 本田 時夫
- 所在地
- 長崎県諫早市多良見町市布1530
- 創業
- 明治27年3月(1894年)
- 資本金
- 2,000万円
- 従業員
- 65名
- 事業内容
- 洋菓子・和菓子の製造販売、喫茶店
History
沿革
- 明治27年3月(1894年)
- 長崎市大浦町に、初代 本田兼作が「梅月堂」を創業。
- 大正2年3月(1913年)
- 二代目 藤四郎が長崎市元石灰町に移転。
- 昭和2年3月(1927年)
- 浜町に「梅月堂本店」に移転開業。
- 昭和33年1月(1958年)
- 個人経営より法人組織に変更。資本金100万円で、有限会社梅月堂を設立。
- 昭和58年9月(1983年)
- 組織変更により株式会社梅月堂を設立。長崎県多良見町市布名字尾上1530に工場新設。
- 昭和61年10月(1986年)
- 株式会社梅月堂、資本金2,000万円の増資。
- 平成26年10月(2014年)
- 創業120周年を迎える。
- 令和6年5月末(2024年)
- 現在店舗数9店。